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2006.10.20 (Fri)

終戦後の高砂義勇兵の苦難


純真で高潔な魂をもつ、台湾高砂族の物語。を読んでない方は、先にこちらからどうぞ。


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■大戦終結後


半数が戦死したと言われる(正式な記録が残っていません)高砂義勇隊ですが、戦争終結後も苦難が待っていました。前述したように日本軍が撤退し、アメリカの援助を受けて戦勝国という立場を得ていた国民党軍が台湾を接収してしまった為に、彼らも無理やり中国籍にされてしまったのです。
国籍が中国になったので、恩給や補償を受け取れずにいましたが一部の反日団体に利用されている人などを除けば訴訟裁判なんて起こしていませんし、日本を恨んでもいません。
むしろ、共に戦えた事を今も誇りに思っています。
日本の方々は本当に素晴らしい戦友を持ったものだと思います。

さて、その国民党軍(外省人)による台湾民族(本省人)への狼藉は目に余るものがありました。
彼らは台湾民族を不当に職場から締め出し、台湾元を不当に安く設定する事で台湾からの物資は安く買い叩き、中国からの品物は高く売りつけるといった事をします。
このせいで、台湾の経済は破綻し前述したように帰還した軍属の方々は当然、台湾の一般人も仕事が与えられなかったために、失業者は30万人を越え日本統治時代の法治国家としての姿は見る影も無く、公共交通機関も警護無しでは利用でないという治安の悪化も招きます。

そして民衆の不満はついに爆発します。密輸煙草を売ることでかろうじて生活していた老婆に取締りの国民政府軍兵士が、煙草を取り上げるばかりか所持金まで取り上げたのです。
還してくれるよう懇願する老婆を、銃床で滅多打ちにするという余りの暴挙に市民が憤慨。
逃げながら撃った、取締官の銃弾が市民一人を即死に至らしめると一層市民を刺激しついに全土で暴動が発生しました。これが有名な二・二八事件です。

最初は武器を持たない民衆が行政の改革を訴えるデモでしたが、国民政府軍は重火器を以って、市民に対し虐殺を開始します(この辺り、中国人は全く今も昔も変わってませんね。) 
そこで立ち上がったのが元帝国軍人の台湾人の皆さんでした。

「放送局を占拠して、元日本軍人を招集しました。かつての軍人たちは所属していた部隊に関係なく集まりました。陸軍、海軍もバラバラに集まって来ました。集まって来た人は、日本軍の軍服が国府(中華民国国民政府)側の倉庫にあったので、みんなでこれを奪い取って着て軍人に返りました。武器もありましたよ。終戦二年後にして大日本帝国軍人の復 活、大日本帝国軍隊の復興ですよ。高砂義勇隊も山から降りて来ました。嘉義や台中では高砂義勇隊が出て戦いました。」(台湾独立の胎動ー4より)

まさに、これこそ帝国軍人魂ですね。
…それはともかく、そういった経緯で元軍属の方々も立ち上がり錆付きかけた武器で国民政府軍を圧倒し、一時政府軍側の陳儀行政長官も台湾人側の要求であった台湾省政の改革を受け入れるような態度を見せ台湾が台湾人の手に戻るかと全土は一気に沸き立ちました。
しかし、それは本土に援軍が到着するまでの時間稼ぎの計略で13,000名に及ぶ精鋭の中国陸軍第二十一師団と憲兵第四団が上陸すると手当たり次第に台湾人を虐殺しました。

台湾人への無差別な殺戮は高雄・基隆から始まり、約2週間で全島を鎮圧しました。
殺戮には機関銃が使用されたが、手のひらに針金を刺し、数人1組に繋いだり、麻袋に詰めて海や河に投げ捨てたり、また、処刑前に市中引き回しを行い、処刑後は数日間放置されたり、と今世紀に生きる近代文明の人間がなしえる業とは思えぬ野蛮きわまりない手口でした。

3月14日、警備総司令部により「粛奸工作」が開始されます。「粛奸工作」の対象は、事件に直接関与していない者も多く含まれ、社会的指導者はもとより、危険人物と見られた民意代表、教授、弁護士、医者、作家、教師など、多くの知識人が逮捕されました。意図的に日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するかのようでした。このため、台湾の知識人の存在は一時期の間空白となってしまいました。(台湾の歴史-虐殺と粛清-より)

こうして台湾人の日本帝国軍人も最後まで抵抗するも、あるいは戦死し、あるいは解散し野に隠れるなどして事実上消滅していきました。
その後、レーガン政権による国民党軍への民主化の圧力をきっかけに、1988年大日本帝国で教育を受けた李登輝氏が総統に就任した事で、ようやく民主化が始まり中国本土と渡り合えるだけの力を付けてきたのです。





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**高砂義勇隊の兵士**


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遙かなる日本を忘れぬ  鳥海美朗


南の海に発した黒潮は台湾を経て日本列島を北上する。簡福源氏(74)の風貌は、四国・徳島県の海辺に暮らした父方の祖父を思い出させた。古(いにしえ)の親戚であったのかもしれない。
台北の中心街から南へ、車で1時間ほど、烏来(ウライ)郷という山間の自然公園の近くに簡氏のお宅があった。初対面である。簡氏はしかし、誤解を恐れず、自らが抱く、遙かなる「日本」への思いを語り続けた。

食卓にはタケノコのいためものや川エビの空揚げなど山の料理が並べられ、とっておきの高梁(コーリャン)酒で私たちは杯を重ねた。
「日本という国がもたらしてくれたもの。それが今日の私の根本なのです」
簡氏は昭和6年(1931年)、日本統治下の台湾に生まれた。6歳の時から6年間学んだ「烏来教育処」を卒業後、日本陸軍軍属になった。
ニューギニアで日本兵として戦死した叔父の「仇をとってやる」と思いつめた。

戦後、日本人は兵も一般人も帰還していった。なぜ僕らも帰らないのかとおじいさんに聞くと、内地の人とは違うという。「ああ、僕は日本人じゃあなかったのか」
簡氏は台湾人である。日台の歴史を知らない場合、ふつう、簡氏のような「日本」への過度にも思えるいれ込みようを示されれば、心地よさよりもむしろ、とまどいを感じる日本人もいるだろう。
台湾はスペインとオランダによる占領を経て、17世紀末からは清朝の支配を受けた。
日清戦争後の1895年、下関条約によって日本統治下に入った歴史がある。

日本が台湾のために国内と同様に帝国大学を設け、鉄道を敷き、水利工事を行うなど当時の国力としては精一杯の力を尽くしたのは事実だが、半世紀にわたる日本統治のすべてが善政だったとは言い切れまい。しかし、少年期に「山田正太郎」を名乗った簡氏は日本語による基礎教育に感謝し、「日本精神は誠の精神。まっすぐで正しい」と説き続けるのである。

厳密に言えば、簡氏は「高砂族」と総称された台湾先住民の一つ、タイヤル族に属する。
族語で温泉を意味するウライの部族長一族の出身で、戦後は20代で台北県議にも当選した。
その後、町村長に相当する烏来郷長を60歳すぎまでつとめた。
そんな簡氏はまた「日本人と産経の読者の皆さんに何と詫びたらいいのか」と繰り返し言う。

本紙でも何度か紹介したが、先の大戦で日本兵として戦った「高砂義勇兵」の英霊記念碑移転にからむトラブルである。読者から寄せられた多額の義援金によって今年2月、移転が完了したのだが、李登輝前台湾総統の揮毫(きごう)も刻まれた記念碑や石碑に一部の立法院(国会)議員やメディアが強く抗議した。
「天皇を賞賛し、誤った歴史認識が含まれている」との理由である。
記念碑は現在、竹板で覆われ、「君が代」などの文字が刻まれた8つの小さな石碑は県の公園事務所の片隅に置かれた状態になっている。簡氏は内政部(内務省)に記念碑の原状回復を求める訴えを起こしているが、解決の目途は立っていない。


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 台湾生活・・・アジアの平和を願ってより転載させて頂きました。



「烏来教育処ではタイヤルの子も日本の子も一緒に学んだ。国語(日本語)にれきし、算数…。担任のオオクボ先生はおぼえが悪い生徒をよく殴ったけれど、分け隔てはしなかった」
かつては同化した「日本」への情熱の中に簡氏は生きている。
「日本がなければ、今の私の恵まれた暮らしはなかった」このような恩義の気持ちを、多くの日本人は忘れてしまった。


【ソース】産経新聞 2006/6/5 朝刊13面『一筆多論』


還ってきた台湾人日本兵 / 河崎 真澄




アジアの森



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