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2006.10.20 (Fri)

純真で高潔な魂をもつ、台湾高砂族の物語。


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かくありて 許されるべきや 密林の かなたに消えし 戦友(とも)を思えば


(本間雅晴中将 高砂義勇兵への鎮魂詠唱)




高砂とは台湾の山岳民族である高砂族からとられていて、彼らは日本軍の募兵に応じて積極的に志願し、7000名前後が高い競争率にも負けず入隊し日本兵として太平洋戦争を戦いました。しかし、高砂義勇隊は無謀なレイテ強襲上陸作戦など、戦争末期の苛烈な戦線に投入され大量の戦死者を出しました。

生き残り、戦後台湾に帰国された方々もいましたが戦勝国として乗り込んできた中国の国民党軍が居座って統治権を握ってしまい、その際国籍を無理やり中国にさせられたために日本から軍属としての恩給や補償も得られず、間違った反戦教育で歪んでいった日本人の間の記憶からも徐々に忘れ去られていったのです。


■先住民族が高砂族として日本に同化するまで

高砂族とは後から名づけられた部族名で、1895年に下関条約に基づき清国から台湾統治を譲り受け、統治を開始した日本が先住少数民族のタイヤル、パイワン、ヤミ族など8種類の部族を総称してそう呼びました。
彼ら山岳先住民族はテリトリー意識が非常に厳しく、平地に住む人々が無断で山に侵入してきた場合は首を狩られるなど、野蛮な風習があり「蕃人」などと呼ばれ蔑まれていました。
事実、清国は彼らを完全に隔離し平地と山岳部には柵を作り、無闇に領域を侵さないようにして平和を保っていたのです。

そんな彼ら先住民に対し、日本はやはり平地に住む人々と隔離する事は変わりませんでしたが大きく違ったのは、積極的に警官を駐在させたり教師や技術者などを送り住まわせて、文化や教育、土木技術などを取り入れさせる、俗に言う皇民化政策を推し進めたのです。(念を押しておきますが、未開人と見なされた人々へ文化の恩恵を与えて導くのは当時の”強国”の正当な義務でした。もっとも欧米は植民地化して搾取することしか考えておらず、それを生真面目に実行したのは日本国だけでした。)

その際、台湾の美しい海岸線を見た日本人は、日本の高砂にも劣らぬ素晴らしさだと評価し、そこから彼ら先住民族の総称を「高砂族」とする事に決めたそうです。
台湾を訪問した昭和天皇が、蛮族と紹介した将軍に対し「朕の国民を蛮族呼ばわりするとは何事か!」とたしなめられたので、慌てて呼称を付けたと言う逸話もあります。
また明治天皇は 新高山の麓の民草も繁りますると聞くや嬉しき と言う歌を詠んで日本統治の元に発展していく台湾民族を喜び、特に新高山と書いているので高砂族を気にかけていたことが伝わってきます。

こうして日本文化を浸透させる事で、韓国と同じように”原住民”を”文明人”に引き上げようとしたのです。しかし、インフラ整備に伴う過酷な労役は彼ら先住民族に強制されましたのでそれに駆り出された彼らの不満は”霧社事件”という先住民による学校の運動会襲撃事件を引き起こしたりしました。
この事件で日本人134名(後145名とも)が殺害され、日本軍は航空機を投入する徹底的な殲滅作戦を行い、決起した1000余名のうち事件の首謀者であるモーナルダオ(自殺)以下685名を殺害(死者の半数は他の高砂部族の手によると言われる)し、投降者551名を受け入れこの暴動を終結させました。


■日本兵として

モーナルダオ率いるマライ系高砂族による暴動という事態が起き、総督以下関係官吏が罷免されましたが、それ以後大きな衝突は起こらずインフラ整備が軌道に乗ると生活も豊かになってきます。国語として定められた日本語は今まで全く無かった部族間の交流を実現させ、公学校が建設され一般家庭の子供たちが教育を受けれるようになり、教育勅語などの教えはモラルも上げていきました。

こうして事実上、台湾人は中国本土に住む人々より文化や精神レベルは高くなったのです。
日本は”植民地政策”を行っていない、という論拠でもありますね。(有名な逸話で、台湾を接収しにきた国民党軍の兵士が蛇口を捻れば水が出てくる事に驚いて、金物屋で蛇口だけを買って壁に取り付けたが当然水が出ない。騙されたと怒ったその兵士は金物屋の主人を殺した、と言うのがあります。)

これは当時同じく欧米列強の植民地となっていたアフリカ、インド、東南アジアの悲惨な状況を見れば、その差は歴然と言えると思います。(韓国の皆さんは残念ながら日本が撤退すると、恩恵は綺麗に忘れて植民地支配を受けたと今でも騒がれてますが台湾の方々は違いました。それは後述します。)


さて、太平洋戦争が始まりますと日本軍は南方戦線でのジャングル戦に悩まされます。
フィリピン攻略戦で損害を被った陸軍は、密林の山岳地帯を戦える素質を持った兵隊として山岳民族であった高砂族に白羽の矢を立てました。
そして、植民地政策を進める欧米列強に対抗しアジアを開放し、八紘一宇という目標を達成するために戦っていた日本に協力しようと大勢の高砂族の若者が志願をします。
一時は100人応募しても採用されるのは2~3人程度という競争率で、中には血で書いた嘆願書を持ってくる方もいたそうです。

こうして、第一次高砂義勇隊500名を皮切りに7000名前後の高砂族の若者が太平洋戦争に身を投じたわけです。先祖伝来の蕃刀(ばんとう)で密林を切り開き方向感覚を失わず、夜目が効き勇猛果敢な性質だった彼らは大活躍しました。
フィリピン攻略だけでなく、メナドやパレンバンの空挺作戦など数々の作戦に参加して南方作戦に従事していた日本兵を助けています。
日本人にも「彼らは素直で純真、そして責任感がありました」と言わせるほどの立派な民族としてその名を響かせていました。


高砂義勇隊を語るには外せないエピソードの一つに、戦友の食料を調達するために出かけていった高砂族の兵士が、両腕に一切手をつけていない食料を抱えたまま餓死した状態で発見されたというものがあります。
たとえ自分が餓死しようとも、戦友の為の食料には最後まで手を付けない。
アメリカ人から見れば到底理解不能な話ではありますが、その愚直なまでの高潔な精神性には胸が熱くなるものを感じます。そして、彼ら高砂族の方々はそういった精神は日本人から学んだと胸を張って語られています。
こういった方々にあるときは協力し合い、あるときは助け、助けられて我々のご先祖様は戦ってきたわけです。


高砂族、苦難の戦後へつづく。


証言 台湾高砂義勇隊 証言 台湾高砂義勇隊
林 えいだい (1998/05)
草風館





アジアの森




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